幸福な依頼人



何が起きているのか分からないまま、ラキオからの短いメッセージに従って俺たちは依頼人の家へ戻った。
 玄関の古めかしい引き戸に手をかけようとすると、中から大声で何やら叫んでいるくぐもった声と物音が聞こえる。
「依頼人サンは外に!」
 そう短く伝えると、お世辞にも滑りがいいとはいえない木の扉をいきおいよく開け、声のする方向へ刑事と二人で駆け出す。
 
 物音の出どころは台所だった。
 木製ビーズのすだれを振り払うようにそこへ入った俺は、思わず目を疑う。
 そこには見知らぬ男がレムナンに押さえ込まれ、フローリングに膝をついたまま必死に暴れている。顔は脂汗で濡れ、血走った目からは狂気めいた光が放たれていた。唇から唾を吐き散らしながら、必死に悪態をついている。
 レムナンは昨晩より隈の酷い顔を眉ひとつ動かさずに、その男の関節を締め上げている。骨が軋む音が空耳であればいい、と本気で思った。
 そしてその光景の横で――ラキオは椅子に優雅に腰掛け、スマホをテーブルに置き、悠々と水を飲んでいた。男の飛沫が飛ばない位置を計算しての、完璧な距離感だ。まるでラウンジで茶会でも開いているかのような落ち着きぶり。
 あまりの温度差に、俺の口から出た言葉はひどく間抜けだった。
「は?……なんだコイツ」
 事務所に戻ったんじゃなかったのか?証拠の映像はどうした?疑問が溢れるのに、出てきたのはそれだけ。
 何が起きているのかわからず、目を白黒させている俺の狼狽を見て、ラキオは声を立てて愉快そうに笑った。その愉しげな様子に、俺の頭に一つの可能性が浮かび上がる。
「……お前まさか」
「やっと気づいたのかい?これは全部、お芝居だよ!この家が無人だと分かれば、必ずそこの愚か者が現れると思ってね」
 つまり――証拠映像は消えてなどいない。盗聴器も、すでに回収済み。
 ラキオが言うにはこうだ。
 レムナンが夜のうちに発見したのは、コンセントに仕掛けられた発信機。給電が必須のタイプで、取り外せば機能は止まる。だが、それでは「盗聴に気づいた」ことが相手に伝わってしまう。だから――。
 ラキオが提案したのは、あえて証拠を失ったフリをして相手をおびき寄せること。依頼人を外に出させ、家を空けるように装い、慌てて証拠を回収しに来た愚者を捕まえる作戦。
 朝方、俺が見た二人の口論も芝居のうち――いや、あれは本気で反対していたレムナンをラキオが無理やり説き伏せていた場面だったらしい。
 ……依頼人に無断で家に潜むのは完全に黒に近いグレーだし、犯人が逆上したらどうするつもりだったんだと疑問は山ほど浮かんでは消えたが、こいつらの危なくてグレーな調査は今に始まった事ではない。
 依頼人を囮に使わなかっただけマシかもしれないと内心思いながら、俺はやっとレムナンの下で暴れる男に目を向けた。


 レムナンに締め上げられていた男は、スラックスに通された長い足をバタつかせてフローリングを蹴り上げ、なおも怒声をあげていた。
「クソッ、暴力だ、訴えてやる!」
「それを言うなら、あなたは不法侵入者です。映像も残しています……困るのは、どちらですかね」
 レムナンの声音は凍りつくように無慈悲で、聞いている俺の背筋までも冷やした。
 そう言われると男は「クソッ」と舌打ちをし、忌々しげに抵抗をやめたようだった。
 

「…………君たちの調査方法には、私としては非常に……非常に、物申したいことが多々あるわけだけれど。結果として被害者を守ることに繋がったから……今回は、今回だけは見なかったことにしておくよ」
 規律をしっかりと重んじる性格と、目の前の悪人を放置はできないという正義感で揺らいでいるのだろう。苦虫を噛み潰したような顔で刑事が告げ、男の身柄をレムナンから引き取ろうとした、その時だった。
 
 ぎぃ、と古い家が悲鳴をあげるように床が軋む。
 台所の入口に、所在なげに立ち尽くす影があった。
「あ、あの……皆さんが、あまりにも戻られないので……心配になって」
 依頼人サンだった。おずおずと俺たち5人を覗き込むその姿を見た瞬間、男の顔色がカッと変わった。
 「よくも……僕を捨てたな!」
 憎悪に歪んだ血走った眼で依頼人を睨みつけ、唾を飛ばしながら絶叫する。
「こんなガキみたいな奴らが新しい相手か!? 頭も悪けりゃ趣味も悪い!」
 依頼人サンが小さく悲鳴を上げる。思わず俺は背中で庇った。
「この男……この後に及んでまだそんなことを……!」
 レムナンが腕を締め上げる力を強めるが、男はなおも醜く叫んだ。
「呪ってやったんだ……お前と、あの婆さんを!」
「なっ……おばあちゃんを……⁉︎」
 依頼人サンの声に、初めて怒りの色が混じった。それを聞いた男が勝ち誇ったように言い募る。
「お前だって婆さんウザいって言ってただろ? 結婚式も海外で派手にやるって話だったのに……直前で逃げやがって。だからいなくなれば俺のとこに戻ると思ってさぁ!」
 ザマアミロと下卑た笑いを浮かべながら言う姿に、俺の後ろで依頼人サンが拳を震わせているのを感じた。
 ――胸糞が悪い。
「クソしょうもねぇな。そんな小細工で女が戻るかよ」
 そう吐き捨てる俺を、男はいやに白い歯を剥き出しにして睨み返してくる。
 その応酬を興味なさげにスマホ越しに眺めていてラキオが、机に置かれていた木人をヒョイと摘み上げた。
「レムナン、この呪いとやらは効果があったのかな?」
 レムナンはしばらく木の人形と下に押さえつけている男をじっと見つめ、低く答える。
「……ありません。こんなものでは誰も死にませんよ。この男の、妄想です」
 レムナンの冷淡な断言に、男の顔から勝ち誇った色が一瞬で剥がれ落ちた。
 
 ――次の瞬間だった。
 ドン、と家全体が揺さぶられた。

 地震か?そう思ったのも束の間、吊るされた木製のすだれが激しく震え、耳障りな音を立て始める。戸棚の皿が一斉にカタカタと鳴り出し、ガラス戸が細かく震えた。
 足元から這い上がってくる振動と、肺を突き刺すほどの冷気。呼吸をするたび、白い息が震える唇から漏れる。
「な、なんだ!?」
 情けなく口からガタガタと息を漏らしながら、男が紫の唇を開いて震えるように叫ぶ。
 戸棚の隙間から包丁が一本床に滑り落ち、依頼人サンの足元でカランと転がった。
 彼女は硬直したまま、まるで何かに見入られたようにその切先に視線を落とし続けている。
「……女の霊がいます」
 レムナンの声は震えていなかったが、異様に低く、張り詰めていた。
「この男とは無関係の、長い髪の女が」
 
「ば、化け物が……!? この家に……!」
 男の絶叫が響く。すると、まるで応じるように、窓ガラスがビリビリと軋み、床下から低いうなりが這い上がってくる。
 すだれの紐がバツンと千切れ、ビーズが豪雨のように降り注ぎ、台所一面にバラバラと散らばった。
 恐怖に耐えきれなくなったのか、男はレムナンを振り払ってもがき、刑事の方へ這うように駆け寄った。
「た、助けてくれ!早く……早くここから出せぇぇぇッ!」
 喚きながら振り返った顔は蒼白を通り越し、死人のような色をしていた。
 次の瞬間、床板の下から「ドン!」と何か巨大なものが叩いたような衝撃。
 男は叫び声を上げ、痙攣し、白目を剥いたまま泡を吹いて倒れ込んだ。

 凍りつくような静寂。
 粉々に砕けた皿の破片が、カランと落ちる音だけが響いていた。その異様な光景のただ中で、ラキオは自身のスマホの画面を掲げる。
 「この部屋の気温は氷点下寸前。本物だ」
 ラキオ自身が何よりも望む本物だというのに、光を失った瞳だけが妙に冷たい。俺には、それが今日起きた出来事で一番怖く感じた。

 
 刑事が失神した男を連行していった後、俺たちは改めて依頼人サンと向き合った。
 呪いは効いていなかった。でも、確かに霊がここにはいる。
「依頼人サン……大丈夫、なワケないよな」
 努めて優しく声をかけるが、返ってきた言葉は意外なものだった。
「大丈夫です。あの男を捕まえていただき、本当に感謝のしようもありません」
 凛としたその口調に、俺は面食らう。先ほどまで蒼白だった顔はすでに落ち着きを取り戻し、口元には柔らかい笑みすら浮かんでいた。
「君は『大したことは起こさない』と言っていたが、今日の事象は十分脅威に値する。この規模のポルターガイストを起こす霊だ。引っ越すことをお勧めするよ」
 ラキオが冷静に進言するが、彼女は静かに首を振った。
「大丈夫です。私、この家が……好きなんです。もしかしたら、その、レムナン君が見たという女性の霊もおばあちゃんなのかもしれません。『あの男に気をつけて』って教えてくれていたのかも……」
「いや、そんな訳……!貴方だって見ましたよね、今この家で起きた事は!」
 レムナンが反論しかけたが、彼女は穏やかな笑顔でそれを制した。そして、ほんの数分前まで霊の恐怖にさらされていたとは思えない澄み切った声で続ける。
「家の中の物が動いていたのだって、あの男が家に入ってきた時に触っただけかもしれませんよね」
 ここまで話すと、ふわりと花が咲くような笑顔を浮かべ、深々とお辞儀をして彼女が言う。
「なんだか、事務所の皆さんには拍子抜けするような事件だったかもしれませんね。でも……おかげで気持ちの悪い男も消えましたし、霊のこともスッキリしました。ですので、これで依頼終了とさせてください」

 その嬉しそうな笑顔は美しくすらあったが――
 彼女の長い髪が揺れる様は、先ほどのポルターガイストよりも余程俺の背筋を凍らせた。
 

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